「知らないと言う前に」

立教大学 観光学部交流文化学科 3年  石田 梨乃

 「さあ、みなさん歩きましょう。」そう書かれた看板の下には、自然の中を歩くアトムのイラストが描かれている。アトムの後ろに描かれているのは水路だろうか。あ、これが野火止用水か。そんなことを考えながら、普段は通り過ぎてしまう看板の前で私は友達と待ち合わせをしていた。JR武蔵野線沿線の新座駅。2番ホームまでのこぢんまりとした駅だが、平日の通学時間帯は多くの利用者であふれる。新座駅周辺には多くの大学が点在しているのだ。多くの学生が新座駅を利用している一方で、新座についてよく知っている学生というのはおそらく少ないのではないだろうか。私もその一人だった。そんな中で、「新座市内に観光資源になりうる場所はないか?」、と言うテーマを授業で出された私たちは、新座にはどんなところがあるのか歩いてみることになった。


 下調べの中で目に留まったのは「野火止用水」。1655年に川越藩主であった松平伊豆守信綱によって命じられ、玉川上水から分水された用水路で、一度水質悪化により分水が中止されたものの、歴史的な用水を蘇らせようとの住民の機運によって流水がよみがえり現在に至っているとのこと。現在はどのような場所になっているのだろうか。地図と睨めっこをしながら、野火止用水が確認できる場所まで歩き出した。


 新座駅の南口を出て15分ほど歩き、道の脇に生い茂った草の向こうに用水路を確認できた。そこから用水路に沿って車道に面した道を歩いていくと、急に視界が開けた。そしてほのかに土の匂いがした。ついさっきまで駅にいたのに、いつの間にこんな景色の中にいたのだろうか。目の前には畑が広がっていた。

夕方で作業している人の姿はなかったが、耕されている畑からは人の生活が感じられる。「こんにちは。」突然向かいから声をかけられた。普段からここを散歩しているのだろうか。老夫婦がこちらに柔らかい笑顔を向けていた。ワンテンポ遅れてつられるように挨拶をした私たち。その場を通ったのは初めてだったが、人との距離感の近さにどこか懐かしさを感じた。


 そこからさらに用水路沿いを進んでいくと、車道から離れ両脇を緑で囲まれた。ザワザワと木の揺れる音や用水路の微かな流水音がより大きく聞こえる。私たちはそこまで歩き続けていた足を止め、深呼吸をした。植物なのか、木なのか、虫なのかわからない独特な自然の匂いをいっぱいに吸い込んだ。すると前から制服を着た男女が歩いてきて私たちの横を通り過ぎた。あの二人はカップルなんだろうか、学校帰りなのだろか、そういえば私の高校にもカップルがよく通る下校ルートがあった、こんな風情があるルートがあるなんて羨ましいなんて話で盛り上がった。


 用水路沿いにはたくさんの植物があった。この日は6月末。ちょうど紫陽花が綺麗に咲いていた。いっぱいの緑の中にピンク、紫、白…。紫陽花の色というのは単色では無い。水彩絵具で書いたような綺麗なグラデーションは、幼い頃作った色水を思い出させる。そして別の場所では、水路脇に立っていた木に「モミジ」と札がつけられていた。秋にはこの道が赤く彩られるのだろうか。まぶたの裏に美しい光景を想像した。


 あの日は随分と長く歩いたが、野火止用水の遊歩道が一番記憶に残っている。野火止用水には歴史がある。しかしこの用水路が残される理由はそれだけでは無いだろう。雑木林とともに見せる四季折々の姿。人を集めるための「観光地スポット」としてではなく、地元の人の「癒しの場」として機能している。また地元の人だけでなく、私のような新参者も足を伸ばせばその癒しの恩恵を受けられる。新座に通っていながらも知らないのはもったいない。そうだ、あのアトムが言うようにとりあえず「さあ、みなさん歩きましょう。」