「新座のモンパルナス、平林寺」
立教大学 観光学部交流文化学科 2年 相坂 祐樹
薄ら寒い梅雨の日だった。濡れた川越街道のアスファルトは暗く沈み、轍の水溜りがキラキラと閃く。まるで、薄い雲の合間から陽が覗く今日の空を映す鏡のようだ。私は、急ぐこともない家路に沿って無気力にアクセルを踏んでいた。武蔵野線の高架下をくぐって数分、ナビに映ったのは、場違いな緑色。ただ帰るだけの時間をやや味気なく感じていた私は、迷いつつも緑色へ向かってハンドルを切っていた。
川越街道から新座警察署を曲がって直進2分、緑色の正体「平林寺」の総門が姿を現す。私は総門前の駐車場に車を停め、腰の曲がった老婦に駐車代金を手渡して、総門に差し掛かった。ここでも拝観料を支払う必要があるようで、500円玉と引き換えに、寺の簡単な地図などが記されたパンフレットと、総門をくぐる権利を手に入れた。境内へ入ると、綺麗に整備された石造りの道がまっすぐ本堂まで伸びており、その間には山門、仏殿、中門が荘厳とした様子で佇んでいる。私は山門をくぐり、さらに奥へと歩いた。雨で霧がかった空気の中、建物は少し色が褪せているように見えるが、顔のすぐ近くまで枝を伸ばした紅葉の葉は鮮やかで、ナビに映った緑色を思い出す。いや、ナビで見たそれよりもはるかに明るく、鮮やかな緑色だ。雨露を溜めた紅葉は先に川越街道で見た閃きとよく似ていたが、違うのは、その光が緑色を反射していることだった。
本堂が大きくなるにつれ、雨の規則的な音とは別な音が聞こえてくる。本堂の中で、数名の僧が経を読んでいるようだ。私は、しばらく経を聴いてみることにした。先ほどまでの雑音にまみれた街の喧騒から一転し、いま聞こえるのは経と雨音のみ。アスファルトで彩られた眼に悪い地味な色とうって変わって、いま見えるのは眼に優しい鮮やかな緑色。数分も経たぬうちに世界が一変した異様さと、こうした世界の希少さを想いながら、少しの間、音を聴いて本堂を眺めるだけの時間を過ごした。こういう時間は好きだ。退屈とも違う、傍から見れば何もしていない、というより自分から見ても特にこれといって何もしていない時間。いつでもできそうでできていない、そんな時間の使い方だろう。これだけでも有意義と思えたが、境内はまだまだ広いので、私はもう少し歩くことにした。
石造りの道を外れて土の上を歩いていくと、現れたのは大きな池。水面は大きな鏡となって空と木々とを映し出し、雨滴が波を立たせている。そこへたくさんの絵の具を撒いたように、色とりどりの鯉たちが泳ぎ回っていた。赤、橙、黒、白、緑、それらが混ざり合い新たな色を産み落とし、ちょうど色に色を重ねていく油絵のように、常に新しい表情に変化する。ここへ経を読む声は届かないが、聴き慣れた雨音の中に残るその声は再度私に何もしない時間をもたらした。ふと我に返り、自分のいまの姿を、何かの芸術品を観ているようだと思った。動きの止まない色彩鮮やかな池や、キラッと閃く紅葉の群れはさしずめ絵の具を散らした絵画だろうか、とするならば、経や雨音はクラシック音楽のように聞こえてくる。忽然と立ち現れた異世界は、私にとっては非日常そのものであり、また、そこら中に芸術品の転がっている様子は、数々のアトリエが立ち並ぶパリのモンパルナス地区のようにも思えた。
平林寺は、季節ごとにもその表情を変える。春紅葉から新緑、梅雨を経て炎天の夏へ、やがて紅葉は色めき、その葉を落とす。その悉くに色があり、音があり、あなたを魅せる何かがあるはずだ。その何かは私には判らない。それはあなたですら訪れるまで判らない、自分だけの芸術作品なのだから。