『おじいさんとガーベラ』

立教大学 観光学部交流文化学科 2年
野口 まゆか

 

 東武東上線志木駅からバスで20分ほど揺られると目的地に到着した。バスを降りた瞬間、目の前には青々と茂った針葉樹林が広がり、私を待っていたかのように鳥のさえずりと水が流れる音が響いている。5分ほど歩くとまるで江戸時代にタイムスリップしたような感覚に陥った。そこには茅葺き屋根の大きな門があった。そう、ここは平林寺・睡足軒の森だ。「金鳳山平林寺」は南北朝時代に創建した寺院で、京都・妙心寺派を代表する禅修行の専門道場である。桃山時代の終わりに徳川家康の助力を得て再興したが、江戸時代初期に川越藩主・松平信綱の命で今の地に移転してきた。ここでは日本特有の四季の移り変わりを楽しむ事ができる。春には満開の桜が池一面を多い、夏にはひぐらしの声が耳を打つ。秋には悲しげな顔をした虫落ち葉がまるでレッドカーペットのように広がり、冬には痩せ細った木々が冷風に揉まれ震えている。こうして毎年ここの地で何を見てきたのだろうか。今ではかつての武蔵野の風景を残していることから国指定天然記念物となっている。今私が踏んでいるこの地を約500年前には教科書に載っている偉人たちが踏みしめたのだと思うとなぜか感慨深かった。その先を少し歩くとそこには池がぽつんと存在していることに気が付いた。池はひっそりとしており、私の吐息がその池の主に聞こえてしまうのではないかと緊張感が漂った。淵辺にはパンジーやチューリップが咲き乱れ、自分の存在価値を精一杯表現していた。しばらく近くにあったベンチでぼーっとしていると、40代くらいの外国人のおじいさんに声を掛けられた。若い子がこんな1人で来るのかということについて聞かれ、私は純粋に興味があって来たという事を伝えた。すると、そのおじいさんは急に前のめりになり、教えてほしいことがあると言って手招きしてきた。そこにあったのは松平信網の写真だった。これは誰なのか、何をした人なのか、この場所と何が関係あるのか、彼は小学1年生のように目を輝かせながら私に質問してきた。それにも関わらず、私は2年ほど前の拙い記憶を辿ることしかできず、彼の期待を裏切るような形になってしまった。私が謝ると彼は気にする事ないと言った。日本人なら誰でも日本の歴史について完璧に習っていると勘違いしてしまっていたと彼は言った。海外では自国の歴史は幼少期の頃からきちんと教育されるのが当たり前であると言った。そして私は自国の歴史人物をも観光客の人に説明できない自分の無力さに羞恥心を抱いた。そんな私に彼はお花をプレゼントしてくれた。その花の名前はガーベラだった。彼はガーベラを渡す際にガーベラの花言葉を知っているかについて問いてきた。花言葉は「常に前進」。今の私に最も適している言葉なのではないか。なんだかこの出会いは偶然ではないような気がした。松平信綱が生前に兄弟に向かって放った「学問は決して裏切らない」、この言葉が睡足軒の赤いガーベラとして若者たちにメッセージを届けてくれているように感じた。ふと周りを見渡すと先ほどまでいたはずのおじいさんがいなくなっていた。そして時計を見るともう夕方になってしまっていた。帰らなきゃ。帰る方向に向き直し、一歩踏み出そうとした途端、手に持っていたガーベラの花弁が風に吹かれて一枚落ちた。まるでこの場所に来るべき本当の意味を気付かせてくれたのかも知れない。なんだか嬉しくなって帰り際に見上げた空の色はあのガーベラと同じように赤く染まっていた。