『散歩で新座市征服』

立教大学 観光学部観光学科 4年
キム ユジン

 

 「住宅しかない。」これが私が新座市に対する初めての感想だった。コロナ禍で、閉じられた入国。そして1年生の末の11月、ようやく日本に入国し、学校の位置に合わせて私は、初めての日本での家を新座市で探した。初めて出会った新座市は人と車で混んでいた東京とは違く、静かな雰囲気だった。
 運よく入国が出来たが、未だにもコロナの恐れは無くならなく、せっかく留学しているが、遠くどこかに行くことに躊躇する状況は続いた。日本に来ても何もできないのに、留学する意味はあるのかというそんな挫折の中、私にとって唯一の幸せは散歩。むしろ、静かで煩雑でない新座市は私にとって気楽に散歩できる都市、場所であった。オンライン授業が終わった後、余裕がある時、私はいつも外に出て、歩いた。散歩は日本、そして新座市のすべてが新しいと感じていた私には冒険だった。最初、私のルートは大通りを歩いて、ドンキホーテから志木駅まで歩くことだった。しかし、どんどんルートを開拓し、立教大学を通り過ぎる道をまっすぐ歩いたり、朝霞台駅の方に一周したりしながら、様々なルートを作り始めた。予想以外に面白く、暇で始まった散歩は、私に気分転換、リフレッシュする時間になり、散歩は、今までも続けて私の趣味の一つになった。そんな日々のうち、ある日は、立教大学の裏側には行ったことがないことを気づいた私は漠然と行きたいと思い、歩き始めた。そして住宅の中、ある神社と出会った。そこは、「大和田氷川神社」。大和田氷川神社は平安初期の延享21年(802年)創建された古い歴史を持つ神社で、夏には祭りも開催するなど一年間様々なイベントを開いているという。神社と向き合った私は、神社の前に見える太鼓橋と鳥居。そして鳥居の後ろに長く並んでいる大きな木と道に入りたいという衝動を感じた。神社に向かって歩くその間、夕陽が沈み暗くなっている空、晩夏で少しずつ吹いてきた涼しい風に揺れる木の葉の音は、神社の存在感がさらに感じられると同時に恐怖という感覚を呼び起こす。歩き続けて到達した神社の建物は浅草神社よりは規模が小さく、私が普段観光地で見た神社に比べては小さかった。しかし、小さな規模であれ、溢れている神社の存在感は規模とは関係なく、どの大きな神社とも同じだった。こうやって、長年、同じ場所で続けて私たちを守り、神社は自分の使命を果たしていたのだろうか。今まで私はコロナを言い訳にして無意味な生活を過ごしたのではないかと、私も中心を保って自分だけの道を進み、自分の存在感を発信できる人になろうとそう思いながら、神社から遠く沈みかけている太陽を眺めながら、今の雰囲気、感覚を刻んだ。
 4年生になって卒業を控えている現在、コロナの中での日本留学の生活は大丈夫だったかと聞かれたら、当然辛かったと答えるだろう。しかし、新座市での生活は他国での寂しさ、そしてすべてが新しく、慣れていなかった私に静かに、私の心の中に安定感や、続けて新しいことに挑戦するのに安らかさを与えた。運が良くないと感じていた留学生活に活力を吹き込んでくれた新座市は私にとってありがたい都市であり、散歩の中で見た多くの風景、そして大和田氷川神社も忘れられない思い出を作ってくれた私が好きな新座の一部である。
 私の初めての留学生活を新座市で過ごしてよかった。