『旅の始まり』
立教大学観光学部交流文化学科 2年
眞壁 瀬菜
1万枚を超えるカメラロールを遡ると、目を引くのは緑一色に輝くある一日。
それを見つけた瞬間、私の記憶の中で2周目の小さな旅が始まる。
「観光学部ってなんだか楽しそうだね。」
入学してから何十回、何百回も言われたこの言葉を、私は今まで素直に受け入れることができなかった。私はいわゆる旅に向いていない性格なのだ。昔から感受性に乏しく、面倒ごとが嫌いで、どれだけワクワクしていても直前になると急に憂鬱に感じてしまう。
そんな私が大学に入学して初めて自分で計画した旅。それがここ新座だ。
新座は東京に住む私にとって何か物足りない、そんな場所だった。東武東上線の車窓に映る高層ビルが徐々に縮んでゆく。志木駅から大学までの細い道のりは通学路としてはちょっと遠く、でも歩けなくはない距離間。毎日同じ道、同じ風景の繰り返し。良いイメージも悪いイメージも特にない。
渋々授業でもらったパンフレットを開いて知っている単語に丸をしてみる。「志木駅」。「立教大学」。私のいつもの道は徒歩20分、地図上にして約7cm。自分の知っている新座のちっぽけさに驚きつつ笑いが込み上げてくる。その下に果てしなく広がるのは私に見つからないように息を潜めていたのだろうか、完全に未知の世界だ。
授業終わりの午後17時半。初夏だからかまだ空には青さが残っている。朝霞台駅から約20分、ぎゅうぎゅうのバスに揺られ、降りたのは「新座高校駅」。いつもとさほど変わらない新座のまち、だと思ったのも束の間、進むにつれて辺りがだんだん緑一色に染まり始める。一本道に沿って歩いているとトラックの往来に気配を隠していた黒目川がいつの間にかすっと顔を覗かせていた。すぐ隣には道を覆い隠すように佇む森。
今回の目的地、「妙音沢」だ。なぜここにしたのか、というよりも友達と行こうとしていた場所はどこも大学終わりには閉館していて、ここしかなかったという方が正しい。
「暗くなる前に早く入ろう。」億劫そうな私を見透かしたように、生い茂った葉は風に揺られ優しくざわめく。まるで私たちを呼んでいるかのようだ。
導かれるように急いで階段を降り、顔を上げる。この光景は夢か、はたまた幻想かー。
目の前に広がるのは辺り一面、別世界。一瞬にして木の葉のカーテンに包まれ、木漏れ日が私の頬を照らす。聞こえてくるのはさらさらと囁く川のせせらぎ。ふと琵琶の音に例えられる伝説を思い出す。「この音がその由来かな。」そんなことを口に出す暇を与えられないほど、私は自然の美しさに圧倒される。いつから私たちは童話の世界に迷い込んでしまったのだろうか。ここに辿り着くまでの満員電車、無味乾燥な住宅地、暑さ、虫。そんなものを一切思い出させないような、この世界には私たち以外誰もいないような、そんな気さえさせる時間を超越したこの空間。さらに奥へ奥へと蜘蛛の巣をかき分けて、私は無我夢中で木道を駆け上がる。泥のついた靴のすぐ横を流れる小川は見せつけるかの如く透明な輝きを放ち私たちの行く手を照らしていた。さすが平成の名水百選に選ばれるだけある。はっと置いていってしまった友達の存在を思い出す。急いで振り返ると、下の方で小さくなっていた彼女は満面の笑みで私を見つめていた。
「私、ここに来てよかった。」そう言われた気がして私は微笑み返す。「私も。」
知っているようで知らなかったこの新座という土地。私の旅の始まりの地。
どのくらい経っただろうか。緑のカーテンをくぐり抜けると、私の心と重なるように空は青色からオレンジ色に変わっていた。閑散としたバスの窓際で私は微かな、けど確かな余韻を噛み締める。「旅って案外悪くないね。」