『今日ひとりで柳瀬川を見てきたよ。』
立教大学 現代心理学部映像身体学科 3年
小磯 佑介
「大学に行くとは『海を見る自由』を得るためなのではないか」。これは、2011年に東日本大震災の影響で卒業式が中止となった卒業生に向けてホームページに公開された、当時の立教新座中学・高校の校長、渡辺憲司氏による言葉である。それから約10年、私は今ついに大学生として、立教大学新座キャンパスに通っている。
2年前、浪人を経てついに大学合格を手にした私は、やる気に満ち溢れていた。しかし大学というものは得てして、特別気合を入れずともどうにか乗り切ることができる環境でもある。自己責任と言ってしまえば、多少厳しく聞こえるかもしれないが、真面目に授業に出席し、課題をしっかり提出すれば、あとは自分の時間として好きなように使いこなせると言っても良い。秋学期の終わりも近づき、それを知ってしまった私は、入学時に耳にしたこの2011年の言葉を心の中で反芻していた。
その日、志木駅で降りた私はいつも通り学校へ向かって歩き始めた。学校は申し分なく楽しかった。多様な考えをもつ友人と話したりするのは楽しく、受ける授業も全て興味深く、非常に充実していた。それにも関わらず、私は校門の前まで来ると逡巡することなく西へ進路を変えた。『海を見る自由』とは何だろう。私は考えていた。電車を降りてしまった手前、海を見るために行きと同じルートを駅まで引き返すのは気に入らなかった。ひたすら歩きながら携帯を開くと、8時50分。私は大学に入って初めて授業をサボった。
私は生まれも育ちも東京であるため、そこまで海に馴染みがあるとは言えないが、やはりこんな状況下では海が見たくなるものである。しかし、どこまで歩いても陸地である。当たり前であるが、目の前が急に開けて海にならないかと思っていた。しかし、辺りを見渡して見ると綺麗で落ち着いた街である。昔ながらの布団屋を見つけどこか懐かしいと思えば、オープンテラスのおしゃれなカフェが。大きな通りを車が激しく行き交っているようで、道の端には至る所に緑があるのがわかる。
散歩をするのは好きだが、午後の授業はさすがに出ておきたい。何もないなら、そろそろ引き返して図書館で時間を潰そうと思っていた矢先、視界がひらけた。川だった。私は柳瀬川にぶつかったのだ。平日の朝方、河原には誰もいない。まだ時間は早かったので、少しゆっくりしようと腰を下ろす。水が運ばれているのを眺めながら、私は再び考えていた。『海を見る自由』とは何だろう。それは紛れもなく、今この時間だと思った。自由とは何か、大学生とは何なのか、改めて問い直すこの時間こそが自由だと言っているのではないか。私がそうして頭を巡らせる間にも、柳瀬川は余計な口を挟まない。肯定も否定もなく、たださらさら穏やかに流れている。渡辺氏はこうも言っていた。「時に孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え」と。そうだ。自分の夢は何か、何がしたいのか、それを明確にするために大学に入ったのだ。日が高くなってきた。大学に戻ろうと腰を上げる。ふと、携帯を取り出し何枚か写真を撮った。静かな川を、強い日差しを、葉が落ちて裸になった木を、乾いた澄んだ空気を。全てレンズに写すことは出来なくても、いつかこの時間を思いだせるようにしたかった。2020年1月9日。キャンパスに行く自由すらなくなったのは、それから間も無くだった。
今、私が大学のある新座へ行くのは週に一度。決して多くはない。そして、社会人になるための準備もぼちぼち始めなければならない。なかなか柳瀬川を見に行く機会がない中で、私は未だに夢がはっきりしていない。そろそろ落ち着いた時間が欲しい頃である。何がしたいのか、じっくり問い直さなければならない。やるべきことを中断して、あの川面と向かい合ってこようと思う。もちろん、授業もしっかり出た上で。