『武蔵野の面影は、今わずかに』

立教大学 観光学部観光学科 2年
石見 遼

 

 武蔵野とは、いったい何だろうか。国木田独歩のファンである私は、彼が著した『武蔵野』を読んでからというもの、当時の武蔵野、というものにロマンを感じていた。しかしいくら読んでもまるで想像上の場所を表現しているようで、彼の描いた「武蔵野」像ははっきりとしなかった。武蔵野市や武蔵野線、武蔵野銀行に武蔵野うどん…。都市化が進み、家々が所狭しと立ち並ぶ現在の風景からは想像もつかないことだが、かつて東京都の北部から埼玉県南部にまたがる武蔵野台地一帯は、すべて薄の原や雑木林が広がる原野だったという。私が通っている新座キャンパスの位置する新座市も、もれなく武蔵野に表現された地域だ。毎日の忙しいキャンパスライフの中でも、通っているこの武蔵野という場所はかつてどのようなところだったのだろうか、という思いは消せずにいた。

 そんなある日、SNSを見ていたら、紅葉の名所を紹介する投稿を見かけた。「埼玉県新座市にある平林寺、武蔵野の面影を今なお残します」。この文章に一瞬で心を奪われた。新座市にそんな場所があるとは知らなかった。紅葉の季節はもう終わっていたが、この投稿を見かけた日の放課後、急いでバスに乗って平林寺に向かった。乗車してしばらくの間、流れる景色はいつもの通学と変わらなかった。しかし、平林寺の2つ手前のバス停、新座市役所のあたりから景色は一変した。空を覆い隠すかのような木々が突如として現れたのだ。降車して改めてこの林を見上げる。新座駅から15分。新座でこんな自然をみるのは初めてだ。

 拝観料を支払って中に入ると、独歩の時代と変わらないであろう景色が出迎えてくれる。正面に鎮座する山門は青空に映え、黄金色に輝いている。この三門は、350年前、岩槻から移築されたものだ。移築とはいえ350年もの間、武蔵野の地を見守ってきた。晩秋の昼下がり、寒さの角が取れたまろやかな風が参道を吹き抜けていく。それを追いかけるようにして通り抜けると、仏殿を目の当たりにする。仏殿もまた、武蔵野の歴史の生き証人である。この地にしっかりと根を張っているのだと感じさせるような、どっしりとした佇まいだ。仏殿の歴史に思いを馳せていると、心地よい水の音が聞こえてくる。吸い寄せられるかのようにして向かったのは放生池。この水はかつて野火止用水から通じていた。この地に住んでいた人々にとってはこの池はオアシスだったに違いない。散策順路を進むと、この野火止用水を見ることができる。水気を含みづらい武蔵野の地において農業を行うのにとても重要な役割を果たしたのがこの用水であった。小さな水の流れの中に、きらきらと輝く人々の努力の結晶を見ることができる。その後も進むと、巨大な墓地に到着する。この墓地は江戸幕府老中、川越藩主であり、この地域の開発に携わった松平信綱公と一族のものだ。ひとつひとつ墓石を見ると、江戸時代の年号を見ることができる。夜見れば少し怖く感じるかもしれないが、夕日に当たった墓石たちは一人一人が自分の成し遂げたことに自信を持っているように見える。命を賭してこの地の開発に全力を注いだ彼らには尊敬の念を抱かずにはいられない。そしてまた広い境内を進んでいく。落ち葉が地面を埋めており、探検をしているかのような気分に陥った。辛うじて木に張り付いている枯葉たちがカサカサと音を立て、冬の到来を告げる。葉っぱたちの声を聴きながらかれこれ10分以上歩き続けた頃だろうか。深い森の中に業平塚と書かれた看板を見つけた。南側の入り口から入り、平林寺の北端に達したのだ。業平塚には、在原業平が京より東国を訪れた際、この地に馬を止めて休んだという言い伝えがある。この場所は平林寺の端であると同時に台地部分の高台になっている。木々の隙間から光が漏れ出していた。身を乗り出して眼下を見下ろした刹那、住宅ではなく一面に広がる薄の原が見えた気がした。